
第十五回アガサ・クリスティー賞選評
鴻巣友季子
今回のアガサ・クリスティー賞も多彩な作品が集まりました。外国を舞台にした応募作が多いのが最近の傾向ですが、そのほうが評価されやすいということはまったくありません。
たとえば、日本国内の設定ですが、山本エレン『僥倖』は非常に面白く読みました。前半はミステリ同好の士が集まるのどかな学園ものですが、背後には教師と生徒のトラブル、そこからのアルコール依存、薬物汚染、いじめの隠蔽、恐喝とその報復といった深刻な問題が浮かびあがります。
殺人が起きるまでがやや長すぎること、ある人物が情報源になっている点が気になりました。高校生たちの写真部での活動やミステリ同好会的な楽しさが最後まで活きるとよかったですね。
中町仁奈『The/Das Gift 銃後の蝶の哀歌』も力作です。第一次世界大戦下のドイツを舞台に、特殊な毒を持つ主人公ジャドが戦争を終わらせる決意をするまでを描き、人間の選択、愛と憎しみ、戦争の悲惨さを追究する小説となっています。
筆力の確かさ、場面ごとの描写力の高さはピカ一でした。欲を言えば、現在のことを語るベルリンパートと、過去のブリュッセルもしくはロンドンパートに遠近感がなく、平面的に並んでいるので、もっとタッチや色彩の濃淡がほしいところです。
私の好みを述べるならば、五嶋恭子『嘆きのバラ』はとても好きでした。日本が南北に分断されたオルタナティヴワールドもので、その構図は朝鮮半島にも重ね合わされるでしょう。北部日本はロシアの属国となっており、その国のある貧困地区から野生の天才ピアニストが現われる。ストーリー展開、プロットに大きな難はないと思いましたが、凄絶な内容にしてはどうもテクストの体温が低い。人びとの感情的なダイナミズムが伝わってこないのが惜しまれました。地の文がト書きのようで、キャラクターたちが書き割り的に感じられる部分があります。この物語で最も重要なのは「絶望」と「怒り」を書くことではないでしょうか。
卯上笹生『赤い果実に溺れるクラゲ』は、札幌駅の書店で店長をしている元探偵が主人公。軽みのある文体に好感を持ちました。死体の入れ替わりや主人公が相談を受ける女性の義父の正体に関しては、他の審査員からも指摘があるとおり、のり切れなさが残りました。
受賞作の川瀬美保『牝牛の海峡―ボスポラス』は日本人音楽家の遺書に始まるミステリで、トルコを舞台にイスタンブール警察のある一日を描いています。在トルコの日本人コミュニティの闇がじつにリアルに感じられ、それも読みどころです。
登場人物が非常に多く、各章で視点人物が入れ替わる。登場人物が多くても視点人物がしっかり絞りこめていれば、物語はコントロールできるものですが、本作の場合、そこのマネジメントがやや甘いように思いました。たった一日を描きながらその「一日」の凝縮感があまり感じられなかったのですが、とはいえ物語の構築力は抜きんでています。受賞、おめでとうございます。
杉江松恋
読み始めたときはそれほどそそられなかった作品が、今回のお気に入りとなった。『赤い果実に溺れるクラゲ』は、書店員に転職した元探偵が学生バイトの女性から相談され、彼女の家族に関する調査を始めるという物語である。主人公設定にそれほど新味はないが、読んでいるうちに引き込まれる。おじさんの元探偵には年齢差のあるヒロインが理解できず、そのずれがオフビートな笑いを呼ぶのだ。二人に恋愛をさせなかった点もよかった。
大胆なトリックを使った作品でもあり、私はこれに最高点を付けた。そのトリックが本当に実現可能であるかという疑義を退けられなかったのが敗因で、推しきれなかった。残念な結果となったが、私はこの作者のファンである。ぜひ書き続けてもらいたい。
受賞作となった『牝牛の海峡―ボスポラス』はイスタンブールを舞台とした警察小説で、ハヤカワ・ミステリの一冊としてこのまま出されても新人の応募作だとは気づかないだろうと思うほどに文章がこなれている。日本人駐在員の、しかも妻たちのコミュニティという特殊な集団が扱われているというおもしろさがあるのだが、作者が複数視点を並行して動かそうとしているために、関心が分散してしまうという欠点がある。慣れていないと、なかなか読書が進まないのではないかと思わせた。しかし未整理で過剰というのは、刈り込めば洗練していける余地があるということでもある。今後の伸びしろは十分にあると判断し、授賞に賛成した。これだけの分量を破綻なく書き切れるのだから無論筆力は高いはずだ。
学校小説としては魅力的だと思ったのが『僥倖』である。京都の公立高校で教員が殺されるという事件が起きる。それが解決されるまでの物語なのだが、ミステリとしては如何せん平板である。クリスティーの某作品をモチーフに使ったり、高校生たちが素人探偵として捜査をしたり、とミステリ要素を強化すべく作者は努力しているのだが、どれも付け足しの域を出ない。それを外しても推理の本質は変化しないからだ。足し算で構成を考える限界が見えてしまっていると思う。見取り図などもさほど機能していないし、謎解きの伏線提示と仮説検証を軸としたプロットの組み立てを、作者は勉強し直すべきだと思う。ただし、学校小説としては非常に好感を持った。そちらの方向に資質のある書き手かもしれない。
『The/Das Gift 銃後の蝶の哀歌』も、これをミステリではなくロマンスとして読んだのであればもっと評価できたと思う。第一次世界大戦下のドイツが舞台の作品で、性交した相手を死なせてしまうという特殊な体質を持つ女性が、その能力を用いて敵陣営に打撃を与え、戦争を終結させようとする。相手を殺す毒がどういうものかという疑問がまず生じるし、彼女はさまざまな場面で他人と接触しているので、それは大丈夫なのか、と不思議になる。要するに作者に利するためだけに設定された能力で、リアリティの裏付けがないのだ。戦争が絡む物語なので、現実との接点があやふやだと読書の意欲が失われる。自分に都合のいい設定だけで固めてしまうという悪癖を、作者はまず修正すべきではないかと思う。
『嘆きのバラ』も、狙いはいいのだが作者の書きぶりがあまりに強引すぎて、物語の膨らみが犠牲になってしまっている。第二次世界大戦の結果南北に国土が分断された架空の日本が舞台である。主人公の少女は貧困のはびこる北から民主主義政治の安定した南に養子として迎えられ、ピアニストとしての才能を開花させる。その彼女が運命に翻弄されて諜報活動に引き寄せられていくというのが話の眼目なのだが、日本の国土が分断された結果どうなったかという考察が甘く、これも作者に都合のいい設定としか思えなかった。架空の国ではなく、たとえばこれを南北朝鮮で書けたら、第一級のエンタテインメントとして成立しただろう。ヒロインの一代記としては十分に読み応えがあるので、非常に残念である。
法月綸太郎
今回の候補作は総じてレベルが高かった。どの書き手もエンタテインメントに必要な文章力と起伏に富んだストーリーを語り抜くフィジカルの強さを併せ持っているが、中でも『牝牛の海峡―ボスポラス』の堂々たる書きっぷりに魅了された。トルコ最大の都市イスタンブールが舞台のユニークな警察小説で、前半は天才ピアニスト・ヒデミの自殺と日本人駐在妻コミュニティのトラブルが中心だが、相次ぐ女性転落死との繋がりから物語のスケールがぐっと広がる。当初は輻輳する人間関係が作為的に感じられたが、ウィーンとイスタンブールに跨がる二都物語的な構図が明かされると「駐妻」パートこそ国内読者向けの親切設計と分かる仕組みだった。ヒデミの人物像が二転三転するプロットは細部までよく練られているし、変わり者ぞろいの特別班が結束を固めていく王道的展開にも嫌味がない。マルチリンガルな都市型捜査小説として高い水準をクリアしていることも含め、受賞作はこれしかないと判断した。
以下、惜しくも受賞を逸した他の候補作について。『嘆きのバラ』は南北に分断された架空の戦後日本を背景に、政治的対立に翻弄される女性ピアニストの数奇な運命を描いた力作。北のスラム街で育った壮絶な幼年期の描写が迫力満点な一方、南への亡命後は天才音楽家の成長小説に振りきった印象で(ピアノの師匠との長年にわたる交流シーンが作中で一番心に残る)、分断国家設定の謀略小説としては衝撃と意外性に乏しい。黒幕政治家は言動が浅すぎて陰謀劇のスリルが台無しだし、幼馴染みの北スパイとのロマンスも消化不良のまま強制終了。分断国家の統一までを描いた最後の章は蛇足感が募った。
『赤い果実に溺れるクラゲ』は丁寧に構築された現代本格で、令和日本の現実から逃げずに、トリッキーなプロットとアマチュア探偵コンビの捜査を両立させている点に好感を持った。ライト文芸寄りのカジュアルな文体が作品の狙いにマッチしているし、人物配置と犯行の段取りに腐心しているのもよく分かるのだが──よほどのことがない限り、このネタは現代の警察には通用しないのではないか。そうでなくても、話の流れ的に真犯人の正体が容易に予想できてしまうので、もっとミスディレクションを活用してほしい。
京都の公立高校が舞台の『僥倖』は教師と生徒の両サイドから教育現場のリアルな空気をとらえた読み味のいい作品。登場人物の描き分けが自然で(探偵役のカフェ店長と府警の刑事の馴れ合いはちと苦しいが)、雑多な学校行事もスムーズに頭に入る。真相はわりとシビアだが、露悪に流れずレジリエントな回復を指向するラストも好印象。ただし「日常の謎」風の連続盗難事件が面白味に欠け、トリックの都合で差し込まれた段取りとしか読めないのは致命的な弱点だと思う。殺人が起こるまでが単調に感じられるのはこのネタが不発なせいだろうし、写真部員たちのエピソードも空回りに終わった感がある。無理にクリスティー作品に絡めず、別の処理をした方がよかったのではないか。
『The/Das Gift 銃後の蝶の哀歌』は、第一次大戦下のベルリンに潜入したベルギーの女性工作員が秘密任務を遂行する歴史ミステリ。風太郎忍法帖みたいなヒロインの特異体質が幻想文学的な寓意なのか、広義の特殊設定なのか見定めがたく、物語との距離感をつかむのに苦労させられたが、史実とフィクションの掛け合わせが巧みで、盲点をつく連続殺人の真相にも説得力がある。問題はヒロインの回想(カットバック式の半生記)の陰に霞んで、せっかくの効果が減殺されていることだろう。エピソードの配置がフラットすぎて、物語の縦軸と横軸の区別が曖昧になったと言うべきかもしれない。作者の手癖なのか、続篇(シリーズ化)への色気みたいな「匂わせ」が端々に顔を出すせいで、物語の焦点がぼやけてしまった感が否めない。書き手の実力は確かなので、視点の選択も含めた全体の構成を一から見直してはどうか。
清水直樹 (「ミステリマガジン」編集長)
今回もバラエティ豊かな五作品が最終候補に残った。年々候補作のレベルが上がっているのを感じるが、とくに今年は秀作が多かったと思う。実際、選考委員の評価は拮抗していた。
その中で私が推したのは、『嘆きのバラ』で、主人公のピアニストの壮絶な人生の物語に引き込まれた。政治的に南北に分断された日本という歴史改変ものの設定で、フジコ・ヘミングを思わせる悲劇の天才ピアニスト、ケイトの濃密な人生が描かれる。ケイトはコンクールで優勝し華々しくデビューを飾るが、ある出来事からプロのピアニストとしてのキャリアを絶たれてしまう。後半の、ある種諦念の境地に至ったあとの彼女の物語もいい。
一方で、南北に分断された日本という設定がミステリ的に最大限活かし切れているとは言い難く、最終的には推し切れなかった。
ミステリとして最も楽しめたのは、イスタンブールを舞台にした警察小説の『牝牛の海峡―ボスポラス』だった。たくさんの登場人物が出てくるが、それぞれの役割がはっきりしていて、書き分けもできている。ヨーロッパとアジアの両方にまたがる都市イスタンブールのオリエンタルな雰囲気も素晴らしい。都市自体が魅力になっている小説のお手本のような作品で、ぜひイスタンブールの地図を片手に読むことをお勧めする。臨場感が増すこと間違いなしです。
難を言えば、物語全体がほぼ一日の出来事として描かれるわりには、緊迫感に欠ける印象があった。事件はいろいろと起きるのだが、緩急が足りないせいだろうか。だが、作品世界に浸って読んだのは事実なので、受賞にまったく異論はない。
『The/Das Gift 銃後の蝶の哀歌』は、第一次大戦下のドイツを舞台に、性交した相手を死なせてしまうという特異な体質をもったベルギーの女性諜報員を描いた歴史ミステリ。ミスリードを誘う主人公のミステリアスな魅力が、先を読ませる駆動力になっている。小説の巧さでは選考作の中では随一だと思った。
謀略小説としては、主人公の属するベルギーが置かれた状況(ドイツとフランスという欧州の大国の間に位置する小国)をさらに書き込まれていれば、物語により厚みが出たのではないか。
『僥倖』は、学園ミステリで、高校教師の日常や日々の業務、生徒たちの生活を丁寧に描いている。探偵役の喫茶店店主(元探偵)と友人の教師の会話を楽しく読んだ。教科担当だけでなく校務の分掌が詳しく書き込まれており新鮮な驚きがあった。作者は学校関係者なのではと勝手に想像してしまった。ただし、肝心の謎解きに関わる人間関係に関しては書き込み不足なのか唐突な感じが否めず、その分、真相が明かされた際の衝撃が弱く感じた。
『赤い果実に溺れるクラゲ』は、北海道の書店店長が主人公ということで、書店もの、ビブリオものを予想して読み始めたが、オフビートな読み味の謎解きミステリだった。『僥倖』同様に丁寧にストーリーを積み上げていっていて、軽い読み口も相まって楽しく読める。ただ、ほかの選考委員も指摘しているように、トリックの部分で、現代の警察がこの行動に気づかないというのは難しいのではないか。また、いちばん怪しい人物が犯人で、ほかに犯人候補が見当たらないというのも本格ミステリとしては難点に思え、高い評価ができなかった。
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