THE KIYOSHI HAYAKAWA FOUNDATION

第六回アガサ・クリスティー賞選評

選評 東 直己

 いまだ長距離の移動が叶わず、昨年に続いてやむなく書面での参加となった。他の選考委員と生で意見交換をすることができなかったのはかえすがえすも残念であったが、候補作を読み味わう幸せは十分に堪能した。
 クリスティー賞の選考は三回目であるが、年ごとにレベルが上がっていく。今回、私が強く推したのは『花を追え』だった。機知にとんだ短篇集で、この作品が読んでいて、一番純粋に楽しむことができた。この著者は、不思議なサービス精神旺盛な方なのだろう、もっとも好感を持った。惜しくも大賞受賞とはならなかったが、匹敵する底力を秘めている。
『誘拐代行業』はメインのストーリーを作りすぎているきらいがあり、最後まで付き合うのは些か苦労した。残念ながら私の肌には合わなかった。
『あの唄をまた唄いませんか』は、話としては面白く読めるかもしれない。ただし、文章の向きがバラバラで、こちらも読者としては没頭できなかった。
『ブレインサイト』は、スケールの大きな物語になるかと期待して読み進めたが、最後は行儀よくまとまってしまったのが残念。ただし、主人公の造形は巧みで、読ませる力がある。
 些か辛口の評となってしまったが、賞を逃した三作品とも「真面目」に書かれていて感心した。みな、このまま書き続けていれば、いずれ良い作品を創りだすであろう。可能性を感じる。最後に取り上げた『ブレインサイト』の作者には、特に期待している。
 クリスティー賞は六回目となり、全体的に高水準で粒ぞろいであった。昨年と同様の感想になるが、こうした企画は継続が大切なのだろう。
 なお、選考委員としての参加は今年で区切りとなるが、ずっとクリスティー賞受賞者への、そしてクリスティー賞への想いは持ち続けよう。候補作から伝わってくるミステリへの情念は熱く、今後への期待を強く感じて。

選評 北上次郎

 候補作四本を読み終えたときの印象は、昨年よりもレベルは落ちるということだった。昨年のレベルが高すぎたということもあるのかもしれないが、それが率直な印象である。まず『誘拐代行業』だが、リアリティに欠けるのはまだいいが、会話も地の文も説明的であるのは辛い。
『あの唄をまた唄いませんか』は、昭和のフォークソングだけを流す喫茶店を舞台に、次々に客が持ち込んでくる不思議な出来事を、マスターを中心にそこに集まる人々が解いていくという連作集だが、塾の講師で常連客の小木先生の推理をみんなが黙って聞くだけという結構は、謎解き小説としての弱さを指摘されても止むを得ない。
 結局残ったのは次の二本で、その争いとなった。まず、『ブレインサイト』だが、手術室の中だけで展開するというシンプルな舞台設定は素晴らしい。脳神経外科医の教授である「私」が過去の手術に失敗して妻を死なせ、アルコール依存症に陥って表舞台を去ったこと。しかしその五年後、公安の依頼を受け、最先端機器を備えた手術のオブザーバーとして戻ってきたこと。ロボットを外国から遠隔操作して手術する予定が、妨害にあって「私」の出番となること──常套的な展開ながらも、手術のディテールがど迫力だ。問題は、病気に対する扱い方と、後半のけたたましさだ。政治的なメッセージが前面に出すぎていて小説を壊している感は免れない。つまりアイディアはいいのだが、それをいかしきっていない。
『花を追え』は着物の知識を核にした日常の謎ミステリで、着物の柄には歴史的な意味があることなどはなかなか面白い。さらに、第三話以降は一つの謎をめぐって大きな話になっていく。問題は第一~二話と三話以降が分断されていることと、「辻が花」が何であるのかが伝わってこないので、その争奪戦にリアリティがないことだ。
 結局、今年度の大賞はなしということになったが、その伸びしろに期待して、『花を追え』が優秀賞ということになった。再度の挑戦を期待したい。

選評 鴻巣友季子

 第六回アガサ・クリスティー賞は、初めて本賞該当作なしとし、優秀賞を出すことになりました。わたしはこれを「ポジティヴな決断」と考えます。回を重ねてこの賞の選考基準が上がってきたということに他なりません。
 この一、二年で強く感じることですが、第一に、文章の質が全体に著しく向上しています。第二に、作品に貫録をつけようとするかのような、文学、哲学、美学などからの必然性のない引用、引喩の類がぐっと減りました。再度、再再度の応募者も増え、それぞれにめざましい変化が見られるのも、大変嬉しいことです。
 優秀賞に決まった春坂咲月さんも再度の挑戦です。一昨年は、暗号やからくり箱などの古典的トリックを駆使し、西洋美術、バロック音楽、仏文学までからめた和風ミステリでしたが、「私」という人称代名詞を使わない一人称の口語文体の滑りの良さが良し悪しになっていました。今年は、一人称から三人称複数視点の文体に替え、文体課題がかなり改善されていると感じました。『花を追え』は、和服の雑学を鏤めながら、日常の小さな謎解きから、ある人物の出自に関わる大きな謎に発展していく、「きもの連作ミステリ」というべき異色作。時おり老舗文化批評などもさり気なく差し挟まれるところに、作者の気骨を感じました。文章が旨いので読ませますが、逸脱やサブエピソードをもう少しそぎ落とすと良いと思います。あるヨーロッパの作家は、大著ばかり書くウンベルト・エーコにこう言ったそうです。「すべての大きな本の中には、抜け出したがっている小さな本がいる」。
 それから私が強く惹かれたのは、『ブレインサイト』です。医学+政治サスペンスですが、作品の時空間をある人物の手術の場に絞り、大胆な着想、迫真のタッチでぐいぐい引きこみます。巨大な軍事計画を背後に据え、最後の最後に政治声明が盛りこまれるあたりで、ややバランスを崩した感があり、惜しいと思います。また、核心となる不治の病の描き方にはいかんせん首肯しがたいものがありました。『あの唄をまた唄いませんか』は、昭和の曲ばかりかけるフォーク喫茶が舞台の連作ものですが、探偵役は数学の先生。懐かしのフォークソングの含意と、数学探偵という特異なキャラクターおよび謎解き理論がもっと効果的に噛みあうと、さらに良かったと思います。『誘拐代行業』は、三浦しをんの〈まほろ〉ものなどを仄かに思わせ、楽しく読みましたが、まずこの代行業の成立条件から見なおす必要がありそうです。

選評 清水直樹(ミステリマガジン編集長)

 第六回にあたる今年は、はじめて最終選考に残った作品が五作から四作となった。まず『誘拐代行業』だが、スラップスティックな味わいの連作集で、キャラクターを重視した書き方は時流に乗っているが、いかんせん全体に軽すぎる。読みやすさと中身の濃さの両立を目指して欲しい。
 昭和のフォークソングだけを流す喫茶店を舞台にした連作集『あの唄をまた唄いませんか』は、作者の昭和フォークに対する思い入れたっぷりで書かれており好感が持てた。描かれる物語もバリエーションも豊かで楽しめたが、ひとつひとつが小粒な印象。また、歌と謎の関連性が読者にわからないのは、読んでいて不安を覚えた。その部分がいちばんの不満点であった。
『ブレインサイト』は、最終候補に残った唯一の長篇。脳外科の最先端医療を題材にし、その起こりうる問題点をうまく突いた形で、主人公が窮地に追い込まれていく手法は、サスペンスの常道であり引き込まれた。ただ、犯行の動機を国家単位の陰謀にまで広げ、政治信条の吐露に分量を割くのは、中盤までのリアリティある描写の印象を薄めてしまった感がある。
 最後に残ったのは、『花を追え』である。蘊蓄をちりばめながら、探偵役の男とヒロインが謎を追うというスタイルには、多くの先行作があるが、『花を追え』は謎がただ謎として解かれるだけでなく、登場人物と有機的に絡むことで物語に厚みが出ている。とくに第三話以降の終盤は、物語に引き込まれた。弱点は、ほかの選考委員も指摘していたが、構成の弱さだろう。前半のもたつきはとくに気になり、最高点を付けられなかった大きな理由である。
 大賞を出せなかったのは残念だが、『花を追え』に改稿を前提にしての優秀賞を与えるという着地点は妥当であろうと思う。最後に全体の不満を述べるなら、連作もいいが、ひとつの大きな謎なり、人物をしっかりと書いた長篇作品を読んでみたいということだ。次回以降の応募者に期待したい。