THE KIYOSHI HAYAKAWA FOUNDATION

第九回アガサ・クリスティー賞選評

選評 北上次郎

『月よりの代弁者』の冒頭は素晴らしい。読み始めてすぐに「これは傑作だ。すごいすごい」と興奮してしまった。
採点は5点満点だが、6点を付けようと思ったほどである。スリルとサスペンスに富み、それだけならまだ驚かないが、特筆すべきは新鮮であることだ。物語に漲る緊張に圧倒され、興奮してしまったのはそのためだろう。

問題は、話が地球にかえってきてからは普通のパニック小説になってしまったことだ。凡百のパニック小説に比べればそれでも遙かに面白いのだから、普通というのは厳しすぎるか。冒頭の宇宙の場面があまりに素晴らしかったので、その落差が少しばかり残念であった、ということだろう。いまではそう解釈している。

この長篇の美点をまず一つあげるなら、「絵」が美しいことだ。冒頭の宇宙からの光景も美しいが、ラストのイメージも美しい。こういう「絵」を描くことが出来る作家は信頼できる。その他の美点をあげていくとキリがないのでここでは控えておく。書きたいこともあるのだが、ネタばれになってしまいそうなので、ぐっと我慢。読ませる力は群を抜いている。第一回のポプラ社小説大賞を『削除ボーイズ0326』で受賞してから十三年、その受賞作よりも遙かに成熟しての復活に拍手したい。

同時受賞となった『それ以上でも、それ以下でもない』は、第二次大戦末期のフランスを舞台にした小説で、神父の苦悩を軸にした長篇だ。読み終えてみるとすごくシンプルな話であることがわかるが、それを緊迫感あふれる話にまとめた力量は称賛に値する。
こちらもすでに著作を持つ人だが、これまでの作風とはがらりと変えていることも好感を持った。新たな素材に挑戦するところに、この作家の若さと意欲と気迫を感じる。のびしろはいちばんか。

最終候補五作の中では、この二作が抜けていて、他の三作とはかなりの差があるというのが率直な印象だったが、それは他の三作のレベルが低いというよりも、受賞作のレベルが高かったということなのかもしれない。二作受賞というのは、クリスティー賞では初めてだが、その初の栄誉に相応しい作品を送り出せたことを喜びたい。


選評 鴻巣友季子

今年もバラエティに富む五作でした。本賞初のダブル受賞、おめでとうございます。

書き慣れた印象を受ける作品が多く、五作とも安定感があり、最後まで読ませますが、安定感は小説を書くうえでの最優先事項ではありません。読むうえでの最重要評価点でもありません。

以下、読んだ順に挙げます。

『一途な家─あるいは赤屋敷の秘密─』は、現代的なセンスで読ませる屋敷ものです。舞台は、奇妙な六人組がシェアハウスの形で暮らしている、いわくつきの古屋敷。女子大学生に突然、この屋敷の相続通知が舞い込むことから物語が始まります。各人物の描き込みは魅力的ですが、推理がいかんせん確証を欠き、スペキュレーションものにしても、howの部分が書けていないのと、ある人物の兄が優秀な探偵役として急に登場して解決してしまう感があり、そこが惜しまれました。

『赤い三日月にさよならを』は、明治四十年代に時代を設定したBL風味のあるミステリです。和歌をふんだんに取り入れるなど、非常に丹精した跡が見られ、その点評価したいと思いますが、作品の世界観が内向きに感じられます。もっと見えない何か、見えない誰かにむかって書いていただきたいと思います。

受賞作『月よりの代弁者』は、月面ミッションに絡むスケールの大きな作品で、冒頭から引きこまれました。前半では、宇宙船内という密室を舞台に、ミニマルな人数でサスペンスを展開させ、後半では、パンデミックものに変容させます。描写力は抜きんでており、ラストに向かう情景の数々は圧巻でした。太古の生物であるウィルスと「遅れてきた者」である人間の戦い、あるいは「功利主義」の是非など壮大なテーマを擁しています。中盤以降、やや冗長な部分を削り、終盤をさらにきめ細かく、かつ視野のスコープを広げて描きこむと、さらに良かったと思います。本作に私は最高点をつけました。

受賞作『それ以上でも、それ以下でもない』は、フレンチナチスの異名をとったヴィシー政権下のフランスの村を舞台にしたミステリです。閉鎖的な人間関係の空間に怨恨や悪意が渦巻き、うわさが人を惑わす。筆致がよくもわるくもスマートで、ひとが追いつめられていく淀んだ空気が、もっと息詰まるように描けているとさらに良いと思いました。

『神の生まれる場所』も閉鎖的な村を描いています。因習の残る四万十川流域の村に、都会から転居した主人公一家が、謎の死に次々と出会う。文章は端整で申し分なく、私は高い評価をつけました。ひとつ、主人公の「俺」が息子の療養によかれと、家族にろくな相談もなく、縁故も馴染みもない僻地への転居を勢いで決めてしまう行動が、いまの時代、いささか迷惑なものに映るのが気になるところでした。


選評 藤田宜永

藤田宜永

僕がこの賞に関わるようになって三年目を迎えた。毎年、愉しく拝読してきたが、今回が一番、充実感を感じた。

『赤い三日月にさよならを』は本格物の〝探偵遊戯〟だと思えば、それなりに読める。しかし、文章にリズムはないし、登場人物は多いが、じっくりと書き込んでないので、総花的に思えた。作者が書いているものに酔っているという感じもした。本格物に限らず、ハードボイルドなどにも言えるが、ジャンル小説は愛好家の間では、かなり出来の悪い作品でも愉しめるようにできているものだ。仲間内では、この作品は受けるかもしれない。小説はとどのつまりは好き嫌いが一番の問題である。しかし、書き手も読み手も批評精神をもって作品と付き合うのも小説の愉しみではなかろうか。

同じことが言えるのが『一途な家─あるいは赤屋敷の秘密─』。シェアハウスを館ものとしてチョイスしたのは面白いが、名探偵の推理に説得力はなく、全面、会話と説明のみでほとんど描写はない。登場人物の息づかいも聞こえてこない。『赤い三日月……』同様、まったく異論なく圏外に去った。

『神の生まれる場所』は小説に対する真摯な取り組み方には好感を持った。しかし、タイトルの重さのわりには、重厚感の希薄な作品で、過不足なくまとめたが、ぐっと迫ってくるものが感じられなかった。何かが足りないのである。その何かは書き手の中から滲み出てくるもののような気がする。

『それ以上でも、それ以下でもない』はストーリーに縛られない豊かさを感じる作品だった。ナチス・ドイツの支配下にあるフランスの田舎町が舞台。SSやレジスタンス、戦争に否が応でも巻き込まれた住人たちが登場するのだが、全体としては静かな小説である。外国人ばかりが出てくるので、名前だけではなく、違った形の書き分けが必要だったかもしれない。が、ともかく、お手軽な物語を駆け足で作ったものが多い中、懐の深い読ませる作品に仕上がっていたので高得点をつけた。

『月よりの代弁者』は文句なく面白かった。受賞間違いないと決め込んで選考会に臨んだ。言葉でのデッサン力がないと、専門知識を織り交ぜながら、宇宙を舞台にした作品は書けない。SF的なパニック小説で、ともかく素直にエンターテインメントしている。細かい欠点など気にせずに堪能した。この手の分野の作品を最近はあまり読んでいない僕だが、おそらく、SFコンテスト向きの作品ではないだろう。SFの思索小説としての可能性について約半世紀前に言及したのは三島由紀夫だが、今のSFにはそちらに向かっているものが多い気がする。だから、このような作品が日の目を見る場所がない。本賞に応募したのも作者の眼力かもしれない。

ダブル受賞は妥協の産物の時もあるが、今回はまったく違う。両作家を版元は大いに売り込んでほしい。


選評 清水直樹(ミステリマガジン編集長)

第九回の今回は、初めての二作大賞同時受賞となった。傾向の異なる二作の受賞作を出すことができ、賞自体が成熟してきたと実感した。

まず、『月よりの代弁者』は、謎のウィルスをめぐって、月から地球へと舞台を移して展開されるエンターテインメントに徹した秀作。リーダビリティは過去の受賞作のなかでも屈指ではないか。冒頭の緊迫した月面シーンを始め、宇宙パートでは描写の迫真性が素晴らしく、物語を読ませるエンジンとなっている。地球パートに移ってからのパンデミックもテンポがいい。気になった部分を挙げるなら、科学的な題材を扱い、科学者を主人公にしているにもかかわらず、キャラクターの描き方が感情に寄りすぎているように感じた。とはいうものの、全体的に完成度は高く、選考会でも受賞は早々に決まった。

対して、もう一方の受賞作の『それ以上でも、それ以下でもない』は第二次大戦下を舞台にした歴史ミステリ。キャラクターの造形と描き分けが秀逸だった。ストーリー的にも破綻がなく、じつはいちばん楽しく読めた。一方で細部(情景描写や実際の歴史に関わる記述)に関してはやや書き込み不足な印象。歴史ミステリは細部へのこだわりが物語の厚みにつながるジャンルだと思う。ただ、冒頭に提示される謎だけで最後まで読ませる力には可能性を感じさせ、同時受賞にはまったく異論はない。

『神の生まれる場所』は、四国のある集落を舞台にした土俗的なミステリ。展開力に難があり、実際の枚数以上に長く感じた。また、題材を考えると何らかの新奇性が欲しい。『一途な家─あるいは赤屋敷の秘密─』は、〝館もの〟の設定が活かしきれていない。また、名探偵があまりに完全無欠の人物として描かれすぎていて、謎解きが単なる答え合わせになってしまっている。

『赤い三日月にさよならを』は、明治・大正を舞台にした作品。とにかく全体に長く、構成に難がある。魅力的に書けているキャラクターもあったので、プロットを整理して再挑戦してほしい。

アガサクリスティー賞

悲劇喜劇賞

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